シネ・ジュニア・フレンチ映画祭レポート
小沼勝
『NAGISA』の小沼勝監督が第12回シネ・ジュニア・フレンチ児童映画祭のコンペティション部門に招待されました。小沼勝監督は夫人(小泉篤美さん)と渡仏し、映画祭に参加しました。以下は小沼監督自身の参加レポートです。
クリックで拡大シネ・ジュニア映画祭は世界中から集まる良質の映画を子供たちに見せることを目的にフランスで毎年開催されている国際児童映画祭です。
同時にフェスティバルに参加している作品のフランス語圏の国々でのリリースの援助も行なっています。
第12回目を迎える2002年は1月30日〜2月12日の日程で行なわれました。
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ホテルの前の通り
ホテル前の通り
 
コーディネーターのプリシリアさん
プリシリア嬢と小沼勝監督(筆者)

 2002年1月29日、あこがれのパリに妻と二人でやってきた。
 中学生の頃封切られた『巴里のアメリカ人』は7回見たし、高校生のとき『肉体の悪魔』のミシュリーヌ・プレールに夢中になり、セシル・オーブリ、アルレッティ、ミッシェル・モルガン、ダニエル・ダリュー、マルチーヌ・キャロル、シモーヌ・シニョレ、ジャンヌ・モロー、ミレーヌ・ドモンジョ、アネット・ヴァディム、フランソワーズ・アルヌールと次々に熱を上げていった。
 もしアメリカがマリリン・モンローを生まなかったら、映画女優の全てがフランスに集中してしまったことになる。ゴダール以前の監督の名前も20人はスラスラ出てくる程、圧倒的にフランス映画で育った世代だ。しかし自分がこの足でパリの地を踏むなんて一生ないと思っていた。ところがフランスのシネ・ジュニア映画祭が去年ベルリン映画祭で受賞した『NAGISA』を選び、監督一人分のエアチケット代と8日分のホテル代を持つからと招待が来たのだ。
 ド・ゴール空港には映画祭スタッフ、小柄でキュートなプリシリア嬢と大男のギョーム君が迎えてくれ、2月5日から12日までのスケジュール表を渡された。つまりそれまでは丸々フリーなのである。
 翌朝、早速ホテルのすぐ脇にある、前大統領ミッテランの名がついた駅から地下鉄に乗って、15分位でパリ中央部のマドレーヌ広場に降り立った。妻も無論パリは初めてだが、ガイドブック片手に少々へっぴり腰でパリの街を歩き廻った。パリは春のように暖かく、セーヌ河畔の柳も淡い緑に芽吹いていた。

 ■巴里の映画人
映画の記憶と現実は?
ピカソを壁面に
ピカソも風景に溶け込む

ホテル
宿泊ホテル
 思春期の少年がスクリーンで作り上げたイメージを現在のパリから感じとりたいと願うのは無茶な話に違いない。パリにとっても迷惑なことだろう。しかし、それに気づくには少々時間がかかることになる。
 日本で大ヒットした『巴里祭』も、街にあふれるほどの人達が一日中踊るなんて、映画の中だけだったのかもしれない。映画に登場するシャンソン酒場など今は皆無らしい。
 ジャン・ルノワールの『フレンチ・カンカン』は僕のベストワン映画だけど、カンカン・ダンスを見たくても、ムーラン・ルージュは要予約で要正装で125(1=約120円)から、など聞くと腰がひける。もっともこれを高いと思ってはパリを楽しめないのかもしれない。
『現金に手を出すな』でジャン・ギャバンの親友がひっかかる踊り子のいる安キャバレーもフィルム・ノワールの主舞台だった。一流のギャングでも一流のレストランなど行かないのがミソだ。
『勝手にしやがれ』でジーン・セバーグが「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」と大声で夕刊を売ってたのはシャンゼリゼ通りか?
 セシルカットで一世風靡した彼女はアメリカ女優だったと思うが、モンパルナス墓地に彼女の墓があった。墓というものは確実に何かが通い合う場所であった。
 多分昔から変わらぬのは、セーヌの流れか。すさまじい位豊かな水量で、あるときは波立ち、とうとうと流れてゆく。
 昼間のクルージング1時間コース(8.5)に乗った。
 両岸の大きな建物がボートの横移動のスピードと見合ってなかなか良かった。
 イヤホンガイドから流れるイヴ・モンタンの若々しい声、アームストロングのセ・シ・ボンも嬉しい。
 後日、夜のコースにも乗った。
 温かみのあるイルミネーションはすばらしい。

ホテル事情
ホテルの部屋
ホテルの部屋
 映画祭が用意してくれた2ツ星のホテル(ツインで75)はパリのはずれだが、歩いて1分で地下鉄の駅だし、5分歩けばセーヌ河の左岸に出る。
 ソルボンヌ大学の何かの学部があるのか、学生とサラリーマンの街で、大きなビル工事も行なわれており、中々の活気である。難を言えば、バスタブに湯を20cmもためると水になってしまうことだが、シャワーですますことの多いフランスでは普通のことなのだろう。小さなベランダも付いていて、室内の広さも使い勝手も中々良い。お茶か、玉子をゆでる位しか使わなかったが、ミニ・キッチンが完備していてオーブンまであった。
 洗濯はホテルのコインランドリーを使った。洗濯は1×3 乾燥は0.5(10分)×3or4 但し一台しかなくて、妻は争奪戦に明け暮れることになる。
 
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 ■パリところどころ――くう・ねる・あそぶ
パリの食事はおいしいか?
朝食
ホテルの朝食
 ベルリンでは最初から食事の期待はなかったので、それなりにおいしく食べられたのだが、パリは勝手が違った。つまり期待が大きすぎたのだ。同じ魚やインゲンでもソースのような味つけで、おいしく食べたいと思うのだが、いつも失望してしまう。理由は簡単だ。貧乏旅行で一流の店には行ってないからだろう。
 しかし、晩飯に1万も2万も出すのなら東京でも十分食べられるだろう。せいぜい3000円位でと接しても中々当たらず、量的にも持てあましてしまうことが多かった。無論、メニューの大半を理解出来ないのだから仕方ないのだが…。

『地下鉄のザジ』で有名なシーン〜ザジが氷に乗った山盛りの生ガキを食べると時々真珠が口に残るのでペッと皿に吐きすてる〜忘れられないシーンだ。パリには山ほどのカキや海の幸を店頭に並べてる店も時々ある。
 一皿6ケ入(7〜8)のを二度ほど白ワインで食べたが、これは滅法おいしかった。ただその後に頼んだ魚のスープがダメだった。
 困ったときのチャイニーズではないが、ラーメン系が食べたくなって、ホテルの近くにチャイナタウンがあるというので出かけてみた。しかしどの店も、ヴェトナム、タイランド、チャイニーズ、アジアンティークなどミックスした看板が出ているが、ラーメン系はなかった。
 スープヌードルというのは、生モヤシやナマ唐辛子をトッピングして熱いスープをかけるヴェトナム式のしか見当たらなかった。
 これは、インドシナ戦争、ヴェトナム戦争と続く中、パリ在住のヴェトナム人は、中国、タイランド、日本人などに化けて商売を続けたのではないかしら…。無論、イタリアンならホテルの近くに安くてうまい店があった。昼は学生でいっぱいになるがナポリタン(6.1)をたのむと、食前酒一杯とおいしいパン、オリーブの実がどっさりサービスで出てくるのだった。
 トータルしてふり返ると、パリでは各種パンとチーズ(自分は乾いたヨーグルト状のが、大好きだった)と3位で買える赤ワインが一等おいしかった。

ポルノを見ずに碁を楽しむ
ミニ・パンフ
シネ・ジュニア映画祭ミニ・パンフ        これは碁石じゃないよ!
 日本で松島利行氏(映画評論家)から、レ・アルの近くのカフェの2階に囲碁を打てる部屋があると聞いてたので夕方出かけてみた。
 この辺りは街娼の姿もチラホラ、細い路地に入ると本番ライブショーの店やポルノビデオを見せる店がひしめいている。それらを横目で見ながら碁会所を探すと、意外とすぐに見つかった。
 すでに3組位が打っていて、英語で話しかけるとすぐに相手になってくれた。カミさんにはポンピドーの近代美術館に行ってもらい、久々に碁に没入した。
 最初の碁はニギリで黒が当たり、かなりのねじり合いになったが、相手の石を召し取って圧勝した。相手が代わって4目置かして一勝一負。最後は一等強そうな人で、いつの間にか見物に日本人が居て、僕に2目置いてみてと言う。結果は中押し負けだった。
 帰国する2日前にも、映画祭が夕方終ったので一人で出かけた。時間的に遅かったのか一組しかやってなかった。しばらく観戦してたら、やっと終って相手をしてくれた。ここは席料などはタダで、時々、下のカフェからギャルソンが注文取りに上がってくるが、別に頼まなくてもいいのだ。相手が生ビールを頼んだので、僕もつき合った。
 外国人は攻めが強いけど、シノギはそれほどでもないとみて、切ってきた石を攻めたてたが、すごいねばりでシノギきられて5目の負けだった。もう一回と頼んだが、もう遅いからと帰っていった。
 外に出ると夜風が気持よかった。場所柄、観光客とのトラブルも多いのか、大型のパトロール車がゆっくり巡回していた。
 
パリで見た2本の映画
エスペス・ジャン・ヴィラ(劇場)
アルキュイユのエスペス・ジャン・ヴィラにて

 地下鉄で一駅のところに18館も持つ大シネコンがあった。土・日は大変な混みようである。(一人8.1
Le Peuple Migrateur(移民/邦題=『WATARIDORI』)』という題の鳥達が主役の映画を見た。世界中の渡り鳥を丹念に追って撮影されている。どうしてこれほどの空撮が可能なのか、見事だ。言葉はナレーションだけだが、画面だけで十分伝わるし、別世界へ連れていってくれる。

 もう一本は『8Femmes(8人の女達)』。往年の大スター、ダニエル・ダリューが出ているということで入ってみた。
 登場する女性たちが次々と歌い踊るミュージカル仕立てで妻は結構楽しんでいたが、やはり言葉が分からなくてはチト苦しい。
 カトリーヌ・ドヌーヴはパンパンに元気な役柄のせいか、以前の植物的魅力はなかったが、あの特徴あるダリューの口唇の形は昔のままであった。

 
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 ■シネ・ジュニア映画祭
シネ・ジュニア映画祭の概要(1月30日〜2月12日)
映画祭エリア・マップ
映画祭のエリア
 
翻訳者・ヴァレリーさん
仏語字幕翻訳のヴァレリーさん
通訳・河野直美さん&シネ・ジュニアのスタッフ
通訳・河野直美さん(左端)と事務局スタッフ
右からギョーム、プリシリア、セバスチャンの各氏

無論、日本ではほとんど情報がなく、時々通訳を通じ映画祭スタッフから聞いたものを要約したものである。

 パリ市内のどこかで行なわれているものと思ってたら、とんでもなくむしろ市内の大きな映画館やシネコンでは上映してもらえないような小さくても良質な映画を、パリ近郊の18の市や町(イル・ド・フランス)の映画館やホール上映で、3才〜15才の子供達対象に見せていく、トータルで350回位の上映でのべ3万人の動員がある。観映料は一人15フラン(より高いケースもある)である。
 映画祭実行委員のヘッドは政府の役人(教育省や文化スポーツ省)が兼任し、その発注により映画祭組織が動いている。国家予算と地方自治体の予算援助を受けている。パリ近郊の映画館保護も目的にしている。
 今回のコンペは8作品。他に短編アニメ、ロシア映画へのオマージュ、短編家族映画、『本からスクリーンへ』(ロアルト・ダール原作の映画)等20本位で、それにビデオ・フォーラムもある。

 この映画祭は『NAGISA』にフランス語の字幕までつけてくれていた。翻訳してくれたのはパリに住むヴァレリーさん。彼女は10代で日本にホームステイに来たり、数年前まで日本で映画宣伝の仕事をしていた。神代辰巳監督の『濡れた欲情・特出し21人』や黒沢清監督の『回路』などの字幕をつけた人だ。
 ヴァレリーさんは『NAGISA』の字幕をつけるのはとても楽しい仕事だったと言い、映画祭の通訳はベルリン映画祭に出席の為出来ないので、翻訳も手伝ってもらった河野直美さん(以下ナオミ)を推薦してくれていた。

 
スケジュール通りにはいかない!
スシイ・アン・ブリの小学校
スシイ・アン・ブリの小学校
生徒たち
質問をテキパキとさばく先生
黒板
黒板には『NAGISA』の絵が ≫more 

 5日から僕のスケジュールが始まった。
 14:30ホテル出発と書かれてあるので、早めにフロントに降りると通訳のナオミが来ていた。初対面の挨拶の後、通訳といっても監督の言うことを正確に伝えようなんて考えないで、大半が子供達だろうから、まず何を聞きたいのかを理解して、分かりやすくあなたの考えや感性で答えてくれればいいんです、とお願いした。

 10分以上遅れてきたプリシリアの運転で出発した。
 それが30分も走って、とんでもない方向に走ってたと気づいて、地図を出したり、Uターンしたり大騒ぎに。予定表には15:30からミーティングとあるだけだが、大幅に遅れそうな気配なのだ。
 プリシリアも携帯で相手側と連絡取ったりするのだが、一向にラチがあかない。その電話のやりとりで16:30には子供らを帰宅させないといけない、ナドが分かってくる。
 助手席で地図と首っ引きのナオミもさすがに呆れて、初めて行く場所なのに地図で下調べとかしないのかしらと言っている。我々もさすがラテン民族だよと言って、車窓からの美しい建物を眺めるしかなかった。

 結局、目的の小学校の教室に到着したのは50分遅れだった。
 プリシリアが子供らに一言あやまるかと見てると、その様子もないので、自分があやまることから始まった。
 このクラスの子供達は31日の上映で『NAGISA』を見ており、映画で自分達が好きなシーンを絵に描いて教室の壁いっぱいに飾ってある。質問もいっぱい考えていたらしく、一斉に手を挙げるのを50がらみの男の先生がテキパキと指名していく。時間がないのが可哀想だった。

 
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 ■フランスの子供たち
子供たちの反応は?
生徒たち
スシイ・アン・ブリの小学生たち
シネマ・ロベスピエールの場内
シネマ・ロベスピエール場内
カンタン監督とランチ
カナダのロジャー・カンタン監督らとバスク料理を
エスペス・ジャン・ヴィラの場内
エスペス・ジャン・ヴィラ場内
生徒たち
シャンピニイ・スウ・マルヌの小学生たち
ボード
ここにも『NAGISA』の絵がいっぱい ≫more 
ル・リュクシイでサイン責めに
ル・リュクシイでサイン責めに

 シネ・ジュニアで会った子供達は8才から11才位でみな学校の授業のひとつであり、教室や映画館でも担任の先生が必ず付き添っている。父兄には一度も会わなかった。子供の感想や質問(Q)には共通してるものが多いのでここにまとめてみよう。

Q:何故ヒロシは死んだのか? 
 悲しい映画の終りは好きでないという意見が、ベルリン同様、フランスでも多かった。自分は「あなたの意見は全く正しい。日本でも同じような意見は沢山あった。ヒロシが死なない作り方もあったと思うけど、この映画ではハッピーエンドよりヒロシが死んだり、マミにだまされたり、悲しいことや嫌なこともあった方が、なぎさがより良い大人になれると考えた」などと答えて、何ダ!コレハ『金八先生』ノ主題歌ミタイダと思ったりした。
 別日の教室でケツを取ったら、四分の三がヒロシの死に反対、残りの四分の一の意見は、死に賛成ということではなく、いろいろな結末があってもいいという態度だった。

あと多かった質問は――
○何故60年代か?
○監督になったのは何才か?
○スタッフは何人位か?
○予算のこと
○撮影は何日か?
(A:2週間はウソを言えないが、シナリオ作りやオーディションやリハーサルなどの準備には半年以上かかった)
○撮影中困ったことは?
○次回作は?
○あなたは日本では有名か?
(一瞬ギョッとして間が出来て、知ってる人の中では有名だが、知らない人は誰も知らない――と答えようとしたらナオミが適当に応えてくれていた。ナオミは実に秀れた通訳だったと思う)
○この映画を作ったことを誇りに思うか?
(A:日本から遠く離れたフランスの映画祭に招待されて、皆にも見てもらえたんだから当然ホコリに思う)
 さすが映画発生の国、監督にまつわることが多いし、監督は偉いと思っている。
○なぎさは髪をホントに切ったのか?
(A:撮影の時間があまりとれなかったのでカツラを使った)
○キスした日は何故空白だったのか?
(A:強く感動したことは形に置きかえられないから)
○あの石のコレクションは誰が持って行ったか?
(A:多分お父さんでしょう。なぎさは物よりも心に残ったことを大切にする子供だから)
○無論、私はなぎさが大好きという女の子もいれば、なぎさのような子は嫌いという男の子もいた。

◎圧倒的に多かったのは字幕を読むのが大変だった。声の吹き替えで見たい。
(我々もぜひ吹き替えで見て欲しいと答えた)
◎将来映画の仕事をしたいと言う子供が半数近くいる。

 映画を子供らと一緒に見ることは二度あったが、反応は中々良かった。トップシーンでなぎさがドッヂボールをぶつけるとワッと声が上がるし、イワシのアップやサバ味噌煮のアップやサザエが焼かれるシーンなどでは、ゲッとかイヤーといった声が上がる。
 キスシーンでは低学年では一緒にチュッチュッと音をたてるし、少し上級では拍手が起きた。空白の桝に緑の石を置くシーンでも拍手があった。

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 ■授賞式
受賞作品紹介
授賞式
ル・リュクシイでの授賞式
 
キャンディを送って
『キャンディを送って』
ロメオ・ブラス
『ロメオ・ブラス』
空中要塞
『空中要塞』
レイラ
『レイラ』

 この映画祭はひたすらホテルで待っていて迎えの車に乗り、30分〜40分位走ると小学校又は映画館に着くことの繰り返しである。予定表には大人のjuryやpressとのミーティングなどと書かれた日もあったが、大人と言葉を交わすことは皆無に近かった。
 自分の映画を見るチャンスはあるが、他のコンペ作品を見るチャンスが全くない。そして、アッという間に10日の表彰式が来た。

 残念ながら『NAGISA』は賞をもらえなかったが、受賞した映画をここに簡単に紹介しよう。

●大人グランプリ
『キャンディを送って』デンマーク/2001年(76分)
セシリア・ホルベック・トリアー監督(1953年生)
コペンハーゲンに住む都会っ子でキャンディが大好きな13才と8才位の姉妹が、生まれて初めて両親の元を離れて、年寄りカップルの田舎の農家で夏休みを過ごすことになるが…。ファニーで心に響くコメディ。

●大人CICAE賞
『ロメオ・ブラス』イギリス/1999年(90分)
シャイネ・メアドウズ監督(1972年生)
イギリスは労働者階級が住むとある町。12才のロメオとギャバンはともに複雑な家庭に育った親友同士。ある日数年前に家族を捨てて出ていったロメオの父親が舞い戻ってくる。イギリスの貧しい階級の日常と家族のつながりをあたたかくかつリアルに描き出す。

●子供グランプリ
『空中要塞』カナダ/2001年(90分)
ロジェ・カンタン監督(1949年生)
ケベック。黒い湖の対岸に対立する2つのグループのキャンプが。ここでは夏中2グループの子供たちの「戦争」が20年以上前から繰り広げられている。武器は主に牛の糞だ。南のグループが作り上げた難攻不落の「空中要塞」を北のグループが何とか攻め落とそうとする。

●子供特別賞
『レイラ』デンマーク/2001年(90分)
ガブリエル・アクセル監督(1928年生)
東洋のある国。兄弟とともにつつましく暮らしていた少女はある日、伝統に従い、夫となる男性を見つけるために泉へ行かなければならないと母親にさとされ、翌日、出発する。セリフなし、名優ミシェル・ブーケのナレーションで語られる悲劇。


 
シャンペン・パーティ
ロジャー・ンタン監督が子供グランプリに
『空中要塞』のカナダのカンタン監督
 表彰式の後、劇場2Fのロビーで子供審査員らも一緒のシャンペン・パーティがあった。映画祭の途中、すれ違って一緒にランチをした子供グランプリのカナダのカンタン監督と写真を撮った。
 映画祭主催のセバスチャン氏をつかまえて、「この映画祭は配給の方にも力を入れていると日本で聞いてきた。何とか便宜を図って欲しい」とお願いした。
 プリシリアが「私は『NAGISA』が一番好きだったのに」と慰めてくれた。
 ちなみに昨年のシネ・ジュニアでは、塩田明彦監督の『どこまでもいこう』がグランプリを受賞している。
 
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 ■『NAGISA』で出会った全ての人たちへ
ラストナイト・イン・パリ
シャルティエ
シャルティエの店内
 
小沼夫妻と河野直美さん
河野直美さんの自宅にて
 パリのラストナイトはナオミの仕切りでパリの大衆食堂ともいうべき「CHARTIER」に連れ行ってもらった。創業100年以上というだけあって古い石と木造テーブルの色調が美しい。7時前だというのに1階はすでに満席で2階席に案内された。ウェイター達の顔が又どれも年季が入っていてスゴイのだ。毎日新しいメニューを一枚刷りにして出してくるとのこと。
 ナオミは一つずつゆっくりゆっくり前菜やら料理の説明をしてくれる。そのゆっくりした時間の使い方に、パリ在住3年に満たないと言ってたが、パリの時間の流れが快く感じられる。
 僕はエスカルゴと牛肉を、妻はエスカルゴと鯛を、ナオミはグリーンサラダと鮭を注文した。そしておいしい赤ワインで乾杯した。
 1階の客席をあかず眺めていると、オルセー美術館で見たルノワールの絵のように、昔のパリ市民の生活が、ワインの酔いと共に甦ってきた。

 ナオミ(直美)さん、おつかれさまでした。少々胃が疲れていた我々を自宅に招いてくれ、凍豆腐と長ネギのたっぷり入った熱いウドンをごちそうしてくれてありがとう。
 ヴァレリーさん、『移民』というスゴイ映画を教えてくれ、コインランドリーのやり方までコーチしてくれてありがとう。シネ・ジュニアの皆さん、フランスの子供達の皆さん、愛しい時間をありがとう。映画を愛する大人に育って下さい。
 最後にこの『NAGISA』という映画にかかわった全ての人々に感謝しつつ…。
 そしてパリは又行ってみたい街。今度レストランに入ったら、まず飲み物を頼んで、それから辞書を見ながら、ゆっくりゆっくりア・ラ・カルトを注文出来ることだろう。
 
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