第41回ズリーン国際映画祭

 ◆東欧見聞録◆ チェコふんじゃった【1】                                 by 半沢 浩
ズリーン映画祭からの招待
 チェコ共和国で開催される「Zlin国際映画祭」に行くことになった。子供映画中心の映画祭らしい。『NAGISA』がベルリン映画祭で賞を受けて以降、こんなにも映画祭(それも子供を対象にした映画の)があるのかと言う程、世界各地からコンペ、あるいは招待上映のオファーが相次いだ。そんな中でもZlin映画祭は参加した方がいい、と映画祭に詳しい方のアドバイスがあり、受諾しました。
 小沼監督が多忙なため代わりに製作者である自分が行くことは、果して映画祭側にとって納得することなのだろうか…? 『NAGISA』を正式コンペに出したいZlin映画祭の本音は、世界3大映画祭の一つで子供映画部門とは言え最優秀作品賞を獲った映画を出品させ、映画祭としての格付けをねらってるのだろうという、うがった見方もあった。なるほど、そんなものか。だったらアゴ足付きの招待であるし気楽に行けるか〜と思い直して、東ヨーロッパ圏で少しでも『NAGISA』が売れるように――商売中心ということで旅立ちました。
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 第41回ズリーン国際映画祭公式パンフレット
 本来なら『NAGISA』の海外販売を全面的にお願いしている「トスカドメイン(株)」の畠中恵美子さん(彼女は元SONY関連のヨーロッパ駐在員でチェコの地に詳しく、英語、独語と会話が出来、この映画をきっかけに海外販売の唯一の担当者としてトスカドメインに入られた才媛)と行くはずだった。心強い相棒として期待していたけれど、彼女も多忙につき断念。それじゃあ、とアメリカの大学で4年間映画を学んだ、当社契約プロデューサー・高木竜に変更した。主役オーディションの時協力もしてもらった高木は、英語がペラペラのハズだが…。何しろ
私は、一部の英単語を並べるだけしか出来ず、相手と会話になるわけない。

 ところでチェコは、チェコスロバキアが1993年に解体、スロバキアと分かれて2国になった。
 スラブ系の民族で、言語もチェコ語とスロバキア語とに別れ、2年前にNATOにも加盟し、
いわゆる西側(古いか?)に入って発展し続け、国土は北海道とほぼ同じ大きさで…と簡単なチェコ勉強をし、6月29日、成田から出発した。高木も私もヨーロッパは初めて。
 チェコへは、日本からの直行便はなく、オーストリアのウィーンへ行き、そこに映画祭の迎えの車が来るということであった。地図で見るとウィーンからZlinまで200〜300キロで、首都のプラハへ行き、そこから電車や車で向かうよりも近い。それに車で国境を越えるということが、
ふと『ジャッカルの日』を思い起こさせ(強引だ!)、何ともワクワクさせるではないか!

 飛行機の3人掛けの真ン中は、元・保険外交員っぽい老婦人。「リタイアして昔の同級生と東ヨーロッパ巡り」をするらしく、ウィーンからプラハに入る予定だと言う。西ヨーロッパはもう何度も経験済みなので、今回は東欧巡りと旅慣れた印象で、窓側に座っているフランス人
青年に英語でしきりに話しかけている。
 私がZlin映画祭に行くと言うと、なぜそんなところで? どんな映画? 監督は? 俳優は? と矢継ぎ早やの質問。
面倒くさいので、『NAGISA』のチラシを見せると“柄本明”さんの名前を見つけ、「この方、よくウチの近くで見かける」と言う。(笑)
「ところで予算は?」と訊いてきたので「映画としては小さい」と答えたら、「ファンド方式で作れば、あたし100万ぐらいだったら出せるよ」と勢いづいて言ってきた。まいったな、本気かな?と思いつつ「その時はよろしくお願いします」と苦笑しながら言った。
 働き終えた女性は、金を持っている。何ヵ月か前。朝の10時頃、映画『もういちど』を見に行った際、ブランド品で身を固めた品のいい御婦人方が、銀座の劇場前にズラリと並んでいる姿を見かけて、少しショックを受けた。彼女たちが見に来ていたのは、『リトル・ダンサー』の方だったが、あんな早い時間帯に、それも服装を競い合うごとくピカピカで、お出かけ。――こんな客に来てもらいたいと思った。
一生、糟糠の妻であり続ける映画人の妻は、なかなかこんな風にはならないかなと思ったものだ。
(後日、遅ればせながら『リトル・ダンサー』を観て、親父のうれしさの余りしゃくり上げる姿に、瞬間、私もしゃくり上がっちゃいそうになった。御婦人方の口コミはすごい。ある意味で、日本映画の企画はハリウッドではなく、このイギリス映画を目指すべきだ、と今さらながら思いました。)

ウィーン経由で国境越え
 そうこうするうちにウィーン着。荷物の引取りで1時間もかかり、空港のロビーに出ると、私と高木の名前を書いた紙を高く掲げた、周りからは浮いた衣裳を着た女性がいた。何しろ胸元をえぐる襟のドレスなぞを着ていて、乳房がハミ出しそうだ。
「こりゃツイてる、女性ドライバーか」と思って近づくと横から、若いノッポのニイちゃんが握手を求めて来た。「やっぱりね」と。
 簡単に挨拶する高木の英語はなかなか流暢で、これは先々安心だ、英語はやっぱどこでも基本だ。ところでこの二十歳ぐらいのハデな女性は何者? と思っていると、仏製の日本車並みの大きさの乗用車の助手席に乗り込んで来た。二人で迎えに来たのか…?
●現地時間(以下同)午後4:30
 あまり喋らないこの二人とウィーン郊外をかすめ、田園地帯をチェコ方面に向かった。田園といっても、麦畑と牧草地で、あまり山とか森がなく延々と続いている。『テス』にあるような映画でしか見たことない風景が続く。時代もののロケに使える。日本では高速道路のような道路をスイスイと進む。信号も少なく車も多くない。ドイツ車と仏車が多い。時折、町を通るが田舎の町にしてはこざっぱりときれいだ。生活の匂いがあんまりしない。どうも観光の国なので、美観をそこねる物は、国の政策で表に出していないような気がした。
 小さな町の喫茶店で、コーヒーでも飲みたい気がしたが、「時間が遅れ気味なので、早く行きましょう」と空港でお茶を飲もうとしたときにドライバーに言われたことを思い出し、ガマンした。Zlinまでは約3時間だと言う。
 と、ドライバーが助手席の女性の太股を撫でているのが目に入った。女性は気持ち良さげだ。後ろで見ていた私は高木と目を合わせ、「何だ恋人か」と言った。「彼女を一緒に連れて来やがった」と、日本語で何を喋っても、相手には分からない気安さで、呆れて笑った。

 ついに国境に来た。4人のパスポートを見て警備官はUターンを指示した。ドライバーは、素直にもと来た路を逆走し始めた。どうして?と聞くと、女性の方が道路地図を指して、別の国境へ回らなければならないと手振りで説明した。何でかな? 日本人だからかな? 理由がイマイチ分からないまま30分ほど遠回りして、別の税関に着いた。
 ここは2つの検問所があり、最初はオーストリアの出国、50メートルほど先にチェコの入国のチェックをしているようだった。しかし、スタンプを押す訳でもなくパスポートを見て、我々をチラリと見ただけで簡単に通過できた。ようやくチェコだ。でも、どうして前の道では通関できなかったんだ?――この疑問は、帰りに同じ局面に遭遇した時に英語のけっこう喋れる、ドライバーによって解き明かされる。

 チェコに入ったとたん、風景がガラリと変わった(ように見えた)。小さな森が多い地形は同じようなものなのに、家の作り、畑の作りに、若干そまつな印象を持ったのだ。10年ほど前までは、東側の一員だったせいかな? と考えているうちにドライバーは、変化の多くなった道で猛スピードを出した。高速道路でもないのに160キロぐらい出す。ゆるいカーブでも、あまりスピードを落とさない。でも、ヒヤリとはしない。運転がうまい。乗ってて体が左右にあまり揺れない。こりゃプロだ。
 ふと、時計を見ると7時近い。なのに太陽がまだまだ沈む気配がないぞ。この調子だと7:30頃にはZlinに着いてもまだ明るそうだ。
 近づいたZlinのことをドライバーに訊いた。ところで発音は「ズリーン」なのか「ズーリン」なのか。何回も発音を聞いて「ズリーン」が近い発音だと分かり、ズリーン(Zの発音が微妙だったが)と今後呼ぶことにした(日本では過去の資料から「ズーリン」と呼んでいたのだ)。

 7:30頃になってズリーンの町が見えてきた。高地にある町だと思っていたが、意外と平坦な場所で、ゆるやかな谷の底に中心街があり谷の中腹に小ぎれいな家々が建っている。日本で言えば軽井沢とつくば学園都市をミックスしたような町かな。
 単線のディーゼルの機関車の終点で、市民の主な足は車とトロリーバスだ。道路の上に架線を張り2本のポールを屋根にとりつけて引っかけて電動で走るバスだ。もちろんタイヤでだ。シューシューと架線との接触音がなつかしい。この谷間の町では排気ガスが出ない分だけ、自然保護の意味からも似つかわしい。トロリーバスを見て私は、一気にこの町が好きになってしまった。
 車はホテルに向かった。丘の中腹にあるでかいホテルが宿泊地かと思いきや通り越し、隣りの小さ目のホテル(Hotel Garni)で停った。


Interhotel Moskva Zlin(左) じゃなく Hotel Garni Zlin(右)に宿泊

 ホテルは、ロビー横の食堂は堂々としているのに、部屋は割とチープだった。湯舟がなく、シャワーのみ。ベッドが救急車のベッドみたいに横幅が狭く、寝相の悪い私は、落っこちそうなぐらいだ。
 8時頃にガイドの女性が現れた。「ベロニカ」と言って予備校生らしい。かわいい娘で英語でペラペラとよく喋る。今日は何か催し物があるかと訊くと、パーティは毎日やっていると言う。じゃ、我々も行きたいと言うと、今日は疲れてるはずなのでやめた方がいいと言う。私たちは、緊張があるせいか、そんなに疲れてはいない、パーティに行きたいと言うと、実はチケットがないので行けないと言う。何だ我々は、今日は数に入ってないのか。食事を勧められたが、明日10時からの『NAGISA』の上映会場を見てそれからにしようということになった。
 ホテルの隣りに10数階建てで町を見下ろすホテル・モスクワ(Interhotel Moskva)、その丘のすぐ下にベルケ・キノ劇場(グランド・シネマ)があった。
夜8時を過ぎたというのにまだ明るく、劇場の回りには大勢の人々がたむろしていた。
そのうちの1人のオッサンが我々に近づき金をねだった。少し酔っぱらっており、ベロニカが相手を傷つけないようにあしらった。この物乞いは、三泊した間、何度か見かけた。日本人のホームレスとは違い服装がわりかしこざっぱりしているので、他の人と見分けがつかない。後で聞いた話だと、共産党独裁が崩壊して、資本主義になって貧富の差が激しくなり、働く意欲を失った人が数多くおり、「昔は良かった」と不満をもらす人が多いと聞いた。
 
    Velke kino(ベルケ・キノ)劇場
 日本との連絡をしてくれていたクリスチーナさんにまず会いに行こうと思った。ベロニカは、彼女はパーティに行っているので今日はもうつかまらない、明日9時に事務局に連れて行くと言うのでホテルに戻った。では、と食事をするにも何かするにも、チェコの通貨・コルナに変えなくちゃと思って、銀行あるいは両替屋を捜したが、9時近くになってやってるはずもない…。
 食事はホテルで映画祭のチケットで食べられるようになっていた。レストランにはそれなりの客がいたが、インド人かと思われる2人以外は全員が白人だった。何を食っていいのか分からないのでベロニカのすすめる料理を食べた。いわゆるミックスグリル(ポーク・チキン等の焼いたやつ)を食べたが、ちょっぴり塩味がききすぎて「おいしい!」という程ではなかった。
「チェコはビールがおいしい」と畠中さんから聞いていたので、飲んでみたが、それ程ではなかった。(選んだ銘柄が悪かったか?)
「明日は、別の担当ガイドが来るので、よろしく」とベロニカは世話の焼ける我々二人と別れた。

●5月31日
 朝6時に目が覚めたので近くの町へ散歩。思った程でかいヤツはいない。髪も茶髪系が多く、女性は特に小柄でそんなに日本人と変わらないと思ったが、たまに金髪系に出会うとこれは大きかった。いろんな民族が入り込んでいるんだな。
 ホテルに戻って7時に朝食。バイキング形式だがチーズやヨーグルト類だけがやけに種類が多く、惣菜系が少ない。味付けは、夕食と同じで少々しょっぱ目。レストランで水が出てこない。水が飲みたくて店員に頼んだら、ミネラルウォーターみたいなビン入りのやつが出てきた。飲んで「ウエッ」となった。味のない炭酸水だ。あとで聞いたら、水と言えばこれが出てくる。もちろん有料だ。水は部屋の中の水道水を飲んでくれと言われる。
 食後、高木と連れだって、すぐ近くの銀行へ両替に行った。我々は、日本のお金は持っているのに、チェコのコルナは1コルナも持っておらず、何を買うにも出来ない有様だった。ガラス越しに両替をたのむと、その女性は少し困った顔をした。やっぱり、両替出来ないのかと思った。1コルナは約3.1円だと最近の本に出ていた。3万円両替を頼んだのでまあ、ちょっと率が悪いが9,000コルナ以上であればいいと思っていたが、9,700コルナだったらOKだと言うので替えた。ようやくこれでお茶も飲めるし、買い物も出来る。
 ベルケ・キノ劇場の前を通ると子供がいっぱい並んで入場していた。
 この日のガイドが9時にホテルに迎えに来た。スキンヘッドの25才、「マルチニ」だ。こいつは手際がよく、気の利いたやつだった。英語をペラペラ話し、アメリカに1年行っていたから、と愛想よく話してくれた。
 今日の予定を話した。10時からの『NAGISA』上映時に舞台挨拶があるが、その前に映画祭の事務局へ挨拶、『NAGISA』を見たあとはランチ、その後は「映画を観るか?観光するか?」と訊いてきたので、「チェコのアニメを見たい」と言うと、パンフを見て、「アニメは今日は5時からのスロバキアのアニメだけだ」というのでそれを観よう、時間があるのでズリーン城靴博物館、あと町を少し見よう、と大体の予定を立ててくれた。
 英語の話せる高木は年齢も近いせいか、マルチニとあっという間に仲良くなってしまった。冗談を言って笑っている。ちょっとうらやましい。
 Velke kino劇場前にて高木竜と筆者(右)
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